平和教育とは何か

「平和教育」とは一体どのようなものなのだろうか。常識的に考えれば、それは戦争のない平和な社会を築き、維持していくための教育を意味するはずである。しかし、現実にはその出発点が軍人や軍事力への批判に偏りがちであることに、私は以前から違和感を抱いてきた。

今から60年以上前、中学生だった頃のことを思い出す。当時、国語科と社会科の担当教師が、それぞれ戦後教育の在り方について全く異なる見解を授業で語っていた。その大きな隔たりに、子ども心にも「なぜ同じ教育者でここまで考え方が違うのだろう」と不思議に感じた記憶がある。

振り返れば、当時は日教組の組織化が急速に進み、教育現場では左派的な思想が強い影響力を持ち始めていた時期であったのかもしれない。その一方で、日本の伝統や歴史を重んじる保守的な価値観は、次第に教育現場から後退していったように思われる。

当時の学校教育では、おおむね次のような考え方が主流だったのではないだろうか。「戦争を始めた軍人は悪であり、日本は二度とあの時代へ戻ってはならない。敗戦によって民主主義国家への道が開かれたことは歴史的事実であり、戦前・戦中の軍国主義を支えた道徳教育は一掃された。これからは個人の人権を最優先に守るべきである」という価値観である。

もちろん、戦争の悲惨さや軍事力の危険性を教えることは重要である。しかし、それだけが平和教育であってよいのだろうか。

私は大学時代、学園紛争の渦中に身を置き、政治や社会について考える機会が増えた。若さゆえの情熱に流され、情緒的な行動に走ったこともあったが、今振り返れば、人生を遠回りした危うい時期だったという思いが強く残っている。

そうした経験を経た後、産経新聞「正論」欄に掲載された防衛大学校教授・神谷万丈氏の「平和と軍事―戦後思想の払拭を」という論考を読み、深く共感した。

神谷氏は、「軍事力と平和との関係には二面性がある。使い方を誤れば平和を壊すが、その危険な道具を適切に用いなければ平和は守れない」と指摘する。そして、日本がかつて自滅的な戦争へ突き進んだのは、軍事力の使い方を誤った歴史であったことを踏まえ、その危険性を教える教育は必要であるとしながらも、「危険性だけを教えるのでは軍事力の片面しか伝えたことにならない。平和を守るために軍事力が果たす役割や、その適切な用い方まで教えてこそ、本当の意味での平和教育と言える」と論じている。

私は、この指摘は極めて重要だと考える。平和を守るためには、軍事力の危険性だけでなく、抑止力や安全保障という現実についても理解する必要がある。そうした両面を学んで初めて、平和について主体的に考える力が育まれるのではないだろうか。

平和を語る際には、過去と現在を短絡的に結び付け、自らの信念だけを絶対視するような偏狭な考え方や行動は避けなければならない。歴史から学ぶことは重要だが、それは歴史を単純化したり、特定の価値観だけを押し付けたりすることとは異なる。

現在では世代交代も進み、こうした一面的な平和観に強く影響を受けた世代は、団塊世代前後の高齢層が中心になりつつあるのかもしれない。その意味では、若い世代への影響を過度に心配する必要はないようにも思える。

しかし一方で、辺野古沖で発生した痛ましい転覆事故では、高校生が尊い命を落とした。この出来事に接すると、若い世代が安全保障や平和についてバランスよく学ぶ機会の重要性を改めて痛感する。軍事力を否定するだけでも、無条件に肯定するだけでもなく、その危険性と必要性の双方を理解する教育こそが、これからの時代に求められる真の平和教育ではないだろうか。

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