「岸信介証言録」にみる大衆と世論

読書後にどれほど印象深かった本であっても、記憶に残る文章はほんのわずかです。なので、歳を重ねて記憶が薄らぐ前に、自身の歴史観を育む過程で少なからず影響を受けた本を選び、原文を引用するかたちで内容の一端を紹介していきたいと思います。

安倍元首相がいく度も読み返して政権運営の参考としていた「岸信介証言録」(中公文庫 2014年11月25日発行。底本は同題の2003年毎日新聞社刊による)は今回が6回目となり、紹介するのは大衆と世論に関する箇所です。インタビュアーは原 彬久氏(はら よしひさ)です。

「— ところで、一国の最高政策決定者である総理がですね、政策として最も重要視す

るものは何であるとお考えですか。

  第一はね、いうまでもなく安全保障ですよ。政治においてその国が安全であり、その国が平和であるということが政治の基本ですよ。それがなけりゃあ、経済の発展、あるいは文教の振興もないと思うんですよ。その国が他国から攻められて、現実に侵略が行なわれるという状況があれば、そりゃああなた、教育制度をどうしようとか、社会保障をどうしようとか、あるいは老人福祉をどうしようなどと考える余地はないですよ。そういうことを推進していく前提として、日本の独立を守って安全を保障するという仕組みは、実は戦後未だ確立されてはいないんです。

ー その点に関連しますが、吉田さんの旧安保条約には不備があったと……。

岸  吉田さんがつくった安保条約では、日本がアメリカに占領されているようなものなんです。形式的には占領軍が撤退して、その後改めてアメリ力軍がやってきて日本を占領している状況が旧安保条約なんです。そんなもので日本が安全であるとはいえない。日本独立を擁護し、独立の基礎を確立するということが、すべての政治の出発点なんです。それがなければ、他の大事ないろいろな問題は一切手につかんということになる。」(同書422~423頁)

「- とくに戦後の民主政治のなかでは、政治家が世論というのをどういうふうに考えるかということはかなり重要な要素だと思うのですが、岸さんにとってこの大衆というのは、どう捉えられているのでしょうか。

岸  まあ私なんか出身は官僚だから、一般大衆には割合縁遠いと思うんですよ。ただ私はね、農商務省に入って中小企業の問題を扱っていただけに、産業界においては比較的弱小の企業に接していました。企業の数は非常に多いし、やってる仕事も複雜雑多であって、比較的大衆に近かったともいえる。大きな製鉄業だとか大きな化学工業だけを相手にする産業政策と違って、そういう中小企業対策を請け負っていたんです。

ー 大衆と触れ合うことはできましたか。

 大衆との触れ合いというものはね、政治家でなけりゃあ無理ですよ。官僚にはできない。だから私にしても、一般大衆に接する機会が多くなったのは、政治家になってからです。大衆に対峙するのではなく、大衆のなかに入っていくということです。しかし、政治家はいわゆる大衆よりも数歩前進しているものだと思うんだ。これが望ましい形だ。数歩前進しておって大衆ヘの指導力を持たなければ、政治家としては駄目だと思う。やはり指導性と見識がなければね。大衆のなかに溶け込んでしまって、大衆の一部になったんでは意味をなさないんです。

ー 安保改定のときの大衆はどうでしたか。

  安保のときのデモというのは、いわゆる大衆じゃないと思っていました。まあ一部の大衆といってよい。しかも、ある意図で組織されている一部であって……。総評や全学連や、あるいは背後にある極左的な勢力だったと思います。一般大衆は無関心だったと思うんです、大部分は。前にも話しましたが、あの時も国会の周りはデモでナニし_ていたけれども、後楽園球場では数万の人が入って野球を楽しんでいた。銀座通りには若い男女が手をつないで歩いていた。それが大衆であって、いわゆる「声なき声」ですよ。声を出しているのは一部のつくられたナ二であって、あれは大衆じゃないというのが私の当時の見方でした。

ー これと関連しますが、一国の総理にとって国民というのは、統治の対象であると同時に政権獲得のための一つの不可欠な母体でもあるわけです。岸さんにとって日本人ないし日本国民の特質といいましょうか、これをどういうふうにお考えになっていますか。ナポレオン(ボナパルト。一七六九 ― 一八二一。フランス皇帝)が、フランス国民は神経を逆なでしなけりゃ非常に治めやすい国民だといったそうですけれど。

岸  そうですね、日本国民は全体として乱を好まない民族だと思うんです。非常に保守的ですよ。進歩的な考え方の人も、破壊的な考え方をもっている人もおるにはおるが、大衆の大部分は非常に保守的で堅実だと思うんです。変革を好まないということが、日本の大衆の基本的な性格だと思うな。

― 日本国民というのは、「長い物には卷かれろ」という諺の通り、やはり権威と申しますか、上位の者に弱いという一つの特徴があるのかもしれませんね。

岸  まあそうだね。権威に反抗するとか抵抗するという考え方は少ないね。

  • そういう先生のご認識は、政策決定者として、やはりどこか頭の片隅にあったんでしょうか。

岸  あると思いますね。」(同書423~425頁)

                                        (つづく)

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